日本文明の特質と使命

 

 

   言葉か響きか

ヨハネ黙示録の冒頭に、有名な次の一節があります。

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。 この言葉は、初めに神と共にあった。 万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった」

ギリシャ語で書かれたヨハネ黙示録では、原語の「ロゴス」が日本語で「言葉」または「言」と訳されています。しかし、どうもこの訳ではしっくりせず、違和感が残るように思います。「言葉は神であった」という表現は、神秘家ヨハネの霊視にそぐわない感じを私は抱いていました。

旧約聖書には、超越的な神が「光あれ」と言ったので、光が生まれたとされています。しかし、「光」や「あれ」という言葉は、人間の言葉ですから、神を擬人化して表現したものに違いありません。宇宙の初めには、まだ言葉は生まれていなかったとみるべきでしょう。

 

調べてみると、古代ギリシャ語のロゴスは、動詞レゲインの名詞形で、レゲインは「話す、語る」という意味を持っていました。いろいろな事柄の断片を集めて話すことが原意であったようです。こうしてみますと、どうやら古代のロゴスは、書き言葉ではなく、話し言葉、話された言葉であったものと思われます。書き言葉の意味は、後世に追加されたもので、さらに抽象語が発達するにつれ、ロゴスは「理性」という意味に変容していったのではないでしょうか。

 

古代ギリシャの哲学者プラトンは、書き言葉よりも話し言葉の方に価値を置いていました。彼は相互の対話を重視し、中でも師匠ソクラテスとの対話を通じて真理に接近する著作を多数残しています。対話を通じて、話者の魂がひそかに保持していながらも忘れている「イデア」という永遠不滅の真理を想い起すこと(アナムネーシス)を強調したのでした。

いうまでもなく、話し言葉の特徴は、さまざまな声の「響き」にあります。声の高低や抑揚、感情の響きが、話し相手の胸に直接訴えるのです。としますと、「言葉」と訳するよりも、「響き」と訳した方が、ヨハネの趣旨に合うような気がするのです。比べてみてください。

初めに響きがあった。響きは神と共にあった。響きは神であった。 この響きは、初めに神と共にあった。 万物は響きによって成った。成ったもので、響きによらずに成ったものは何一つなかった」

 どうでしょうか。この訳の方が、日本人にとっては、すんなりと違和感なく受け取ることができるのではないでしょうか。少なくとも私にとっては「響きは神であった」という表現の方がヨハネの感覚に近いように思われるのです。英語で言えば、ワード(word)よりもレゾナンス(resonance)に置き換えた方が適切ではないでしょうか。

 

響きか波動か

 

響きと似た言葉に、波動、振動という用語があります。

量子物理学の世界では、あらゆる物の本質は波動であって、肉眼で観察した時に微粒子の形で現れるという理論が登場しています。素粒子は開閉する「ひも」の振動として説明しうるという仮説もあります。また、医学の領域でもそれぞれの臓器に照応した固有の振動を与えることによって、病巣を縮小させる波動医学がすでに実用化されています。

でも、「響き」と「波動」は異なるものです。どう違うのでしょうか。

ご明察のように、波動は、周波数と波形の組み合わせとして説明される知性的な表現です。これに対し、響きは、皮膚や骨、筋肉によって感知された実感的な表現ですね。風のさわやかさ、水の清らかさは、体感することによってそれを体内化することができます。しかし、いくら知性によって風や水の波動を捕まえたとしても、全身に、内臓に響かせることは無理なのです。

 

知性的に「言葉」や「論理」としてつかまえた神は、単に頭で理解されるにとどまりますが、「響き」として捕まえた神は、体内にしっかり入ります。

例えば、エッセネ派であったイエスは、ヨルダン川でミソギと浣腸を行い、風と日で体を乾かし、そのあと洞窟の中で父と母の祈りを唱えていましたが、そのような水と風、日、岩の響きを体感する修行は欧州では失われていったように思います。キリスト教の神は、論理を尊重するヘレニズムの世界に入り、スコラ神学において精緻な理論に体系化されましたが、その代償としてすっかり生命の響きと輝きを失ってしまったのではないでしょうか。

 

これに対して、日本語は、和歌や俳句のように自然の響きや輝きと同調し、これを表現するのに適していますが、精緻かつ壮大な理論体系を築くにはふさわしくありません。主語は明確でなく、術語も限られています。(例えば「おもう」という言葉は、思う、想う、念う、惟うという意味を内包しています)。

というよりも、日本語は主語を必要としない言語であり、術語の多義性を楽しむ言語です。あいまいな主語や術語は聞き手の想像力と思いやりを通じて意味が絞られ正確に理解されていきます。その過程で、すがすがしい、楽しい、ありがたい、面白いといった響きあいが深まっていくのを体感していくのです。

欧米式の論理的な「討論」や「対話」ではなく、響きを感知しあう「話し合い」を通じて共通の理解に近づこうとする言語と言ってよいでしょう。私は、これを「響き愛」のプロセスと呼んでいます。

 

響きとコトタマ

古来、日本人は、言葉は単に意味を伝えるばかりでなく、魂の響きを運ぶものとして尊重してきました。魂の響きの豊かな言葉を「コトタマ」と呼び、相手を幸せにするコトタマを掛け合うことを習慣としてきました。万葉集においても「コトタマのさきはふ国」と称えられていますね。

特に「あいうえお」のコトタマは、日常の話し合いにおいても、身体に染みとおる豊かな反響をもたらします。「あいうえお」の母音と「あかはなまたらさやわ」の父音の組み合わせで四十八の子音が生まれたと教えられてきました。母と父の響きを、日本語ほど規則的な整合性をもって調えた言語はほかにあるでしょうか。日本語には、ある古代の英智が含まれているように感じられてならないのです。

 

国学者たちは、江戸時代以降、この日本語の特異性に着目し、研究を続けてきました。本居宣長や平田篤胤の研究は有名ですが、さらに山口志道の『水穂伝』、中村孝道の『言霊真壽美鏡』、大石凝真素美の『大日本言霊』といった形で発展を重ねてきました。それは、日本語四十八音(濁音を加えて七十五音)の響きは、それぞれ独自の意味を持っており、そのコトタマを天地に響かせることによって、天地と共鳴し、ある秘跡や伝言を拝受することができるという思想に結実しました。コトタマが神人合一の一つの手法として活用されたわけです。「ヒトはカミなり」という神人一如の大自覚に至る道として、母音と父音と子音を天地に共鳴させる手法が開発されていったのでした。

 

古神道の世界においても、ヒフミ歌やトホカミ歌などの秘呪が天地(あめつち)に共鳴し、貫通するものとして大切に保管されていました。今も、石上神宮では、冬至のタマフリ祭において、一から二へ、二から三へとタマを増殖させるタマフリの行が行われています。(フルの原意は、殖やす、殖えるということです)。

また、伯家神道の秘呪とされる「トホカミエヒタメ」は、八人の巫女たちが皇子を取り囲んで繰り返し唱え、そのコトタマを皇子の心身に浸潤させて霊性を開発するために用いられていたようです。

また、息を長く吐き続ける息吹永世の法を用いながら、「トー」「ホー」「カー」「ミー」と発声していく行も伝えられています。秘呪のコトタマを繰り返し唱え続けることは、ある変性意識に導くための道でもあったのです。

コトタマの反復をつうじて、高次の意識に導かれるという古代の信念は、やがて浄土宗や日蓮宗にも伝搬し、ナムアミダブツやナムミョウホウレンゲキョウの連唱につながっていったものと思われます。

 

コトタマの響かせ方

ではどのようにコトタマを響かせると高次元の変性意識に導かれるのでしょうか。タマフリによるタマの増殖とタマシズメによるタマの清めは、古神道において重要な二本柱とされていますが、それはどのように行えばよいのでしょうか。

そのやり方は、古神道流派によって異なりますが、共通点を簡単に述べると、タマフリは朝の太陽に向かい、陽気を口から飲み込み、それを下腹に落とし込み、ヒフミ歌を念唱していきます。それによって、丹田を活性化し、心身のオーラを拡大、増殖させることができると信じられています。また、タマシズメは、夜の月に向かい、呼吸に合わせて月のしずくをいただきながら、トホカミ歌を唱えつつ心を鎮め清めていくのです。そうしていくと、松果体や脳下垂体から「月のしずく」と呼ばれる快適ホルモンが染み出し、全身を潤すとみなされています。

 

言い換えれば、規則的な呼吸とコトタマを伴いながら、太陽や月の響きと共鳴させ、その共鳴を体感、体験、体現していくのです。コトタマは無音で念唱しても体内で響いており、太陽や月も声は出しませんが、微細で豊かな響きを送ってくれています。このような体感を通じて宇宙の響きに対する畏敬の念を深めていくのです。

戦前までは、こうした日と月の響きに感謝するという風習が村々に残っていましたが、戦後は、アメリカ風の個人主義と功利主義に洗脳され、すっかり忘れ去られてしまいました。自然との関係も、単に人間に有利なように棲み分ける「エコロジー」の思想に矮小化され、山川草木に感謝しその響きの恩沢を受けるという古来の思想は捨てられてしまったようです。

 

しかし、幸いなことに、太古の響きを伝える日本語がまだ残っており、母音の豊かな日本語に養成された日本人の脳の感受性は欧米人のそれと同じではないことが確認されてきました。例えば、秋の虫の音は、まず右脳で受け止めますが、直ちに左脳に転写され、「はかなさ、涼しさ」などの意味を持つものとして解釈されます。欧米人には雑音としか聞こえない虫の音が、人間界に共鳴するある意味を伝えるものとして感知されるのです。

おそらく、せせらぎの水の音も心身を浄化する「清め」のはたらきを持つものとして日本人は受け止めていることでしょう。山頂のイワクラの響きも、堅忍不抜の精神を促すものとして感じているのでしょう。清めの水や堅固なイワクラの意識には、それぞれセオリツ姫、イワナガ姫という神名をあたえて身近に響きあう姫神との交流を楽しんできたのです。

 

こうしてみますと、コトタマの響きの世界は、従来の言語学の意味分析や記号分析の手法では解明が困難のように思えてきます。それは、脳波学、電気生理学、内分泌学、経絡学、音響学など学際的な研究を必要とすることでしょう。論理を重視する欧米の言語と感性の同調を重視する日本語を、脳波や内分泌、細胞磁気、松果体の反応などを含め総合的に比較研究すべき時期が来たのではないでしょうか。

 

日本人とは日本語なり

日本人の世界観や人間観は、日本語の影響を受けるとともに、日本語の構造や音響のなかに反映されているように思います。私どもは、日本語を使って世界と人生の意味付けを行い、日本語によって神話と物語を編み、周りの人々と交流し響きあっているからです。

「祖国とは国語である」と見抜いたのは、ルーマニア人作家のエミール・シオランでした。彼は、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語を学び、最後はパリで死去した作家ですが、彼にとって、祖国とは領土でも民族でもなく、人々の話す国語にあったのです。それは、母国語の中に母国のすべての文化、伝統と感性、霊性が含まれ、反映されていると考えたからでした。

 

近年はまた、「母国語でものの見方や世界観が左右される」というサピア・ウォーフの説も評価されてきています。これは、アメリカ先住民の言語と世界観の分析から導き出したもので「思考は使用する言語によって影響を受ける」というものです。

私は、この説を支持していますが、では日本語はどのような世界観や人間観を反映しているのでしょうか。日本人の独特な思考の秘密は日本語の中に隠されているのでしょうか。

カナダの大学で日本語を教えている金谷武洋さんによると、英語は話し手と相手を切り離して対置的に見る二元論が思考の基本になっているのに対し、日本語は話し手と相手が同じ地平に立って、互いに同じ方向を見て共感しあう思考法に基づいていると主張しています。また、英語は相手に対する行為を上から俯瞰して表現するのに対して、日本語は行為よりも、「いま置かれている状況」を好んで表現するといいます。

 

例えば、日本語では「私はあなたを愛する」と主客を対置させる言い方をしないで、主客を消し「好きだよ」という状況のみを話し、その状況を相手と共有し、共感しあう言語というのです。「私はあなたのためにお風呂を沸かしました」とは言わず、「お風呂が沸きました」という状況を述べ、温かいお風呂のイメージをお互いが共有する「共視」の地平に立つのです。

 

さらに、日本語を話しなれたカナダ、アメリカの人たちは、世界の見方が変わり、思いやりの心をはぐくみ、攻撃的な性格まで姿を消したと著書で報告しています(『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』)

金谷さんは、「英語も中世までは『私(大文字のI)』を強調しない言語だったのに、次第に人間中心、個人中心になり、自分を中心として世界が回っており、また回さなければならないという思想を反映する言語に変化した」とも指摘しています。

 

日本語の古代的性格

日本人が行為そのものよりも置かれた状況を中心に語る傾向は、古事記の世界においてもみることができます。古事記では、神々は天地を「創った」のではなく、天地が初めて開いたときに内発的に「なり成った」のです。

古事記は、「原初の神々が次々に生り成りて鳴り、その役目を終えると身を隠していった」とその「状況」を冒頭に説明していますが、これはユダヤ・キリスト教の「創造神が無から天地を創造した」という行為を強調する世界観と全く異なっています。我が国の神は、始めも終わりもなく生じては消えていく躍動的な生成神であって、無から有を創った超越的な創造神ではないのです。古事記の宇宙観によると、天地(あめつち)は創られるものではなく、始めも終わりもなく変転しつつ永続していくものなのです。(あめつち極まりなし)

 

欧米語は、自然からも相手からも切り離された主体(創造主あるいは個人)が「周りに対して行為する」という作為的な世界観を反映した言語です。創造と終末、天使と悪魔、創造主と被造物、我と汝といった対置的、二元的な世界観の中で、相手を支配しようとする戦略的思考を生み、対立、復讐、闘争の本能を刺激するようになった言語が欧米語ではないかと思われます。

これに対し、日本語は、相手や自然を対立的に見ないで、同じ地平に立って、同じ方向を共有し、共感しあおうとする古代的な言語ではないでしょうか。相手の立場を思いやり、了解しあおうとする融和的な言語ではないでしょうか。

日本語には、全体の和(なごみ)に向けて互いに協力しようとする思惟(しゆい)の傾きが感じられます。

 

確かに日本語は、相手を追い詰める確定的な表現を避け、あいまいな表現をとることが多いのですが、それは相手が話し手の深い意図を推測し、察知してくれることを期待しているためであり、察知してくれる相手との共同作業を通じてあいまいな会話の意味が次第に確定していくのではないでしょうか。

我が国に長く滞在した外国人たちは、「自己主張が控えめになり、相手の立場を思いやるように性格が変化した」と証言しています。日本語は、個人の利益よりも共同体の調和を重視した古代の――おそらく縄文の言語構造を今に残している極めてユニークな言語ではないかと思われます。

しかし、その反面、日本語は相手を動かそうとする戦略的な発想に乏しいという欠点があります。新聞の論説を見ても、日露や日中などの関係を「どうするか」という主体的議論が乏しく、「どうなるか」という傍観的な記事が多いのは気になるところです。「生り成りてなる」という古事記の発想は、今日まで尾を引いているのかもしれません。

 

身体感覚としてのヤマト心

 

 イノチ共同体の発展と深化を志向する態度を、「和(なごみ)」の精神と呼ぶならば、この「和(なごみ)」の国体神話は、今に始まったことではなく、すでに古事記において天照大神の三種の神器に表象されていました。

 

鏡は敬神崇祖と自己反省を表し、玉は慈愛と寛容の心を示し、剣は正義と秩序の実現を意味していました。それは、のちに神武天皇の橿原奠都(てんと)の詔に受け継がれ、聖徳太子の十七条憲法に発展し、二宮尊徳の報徳思想に高められていき、さらに明治天皇の和歌の数々に結晶することになります。

 

ただし、この島国に住むヤマト人は、抽象的、観念的な論理表現には満足せず、大和言葉をもって和歌を詠み、その響きを通じて体感、実感することを追い求めてきたという特徴があります。欧米人のように論理体系の一貫性に感動することはまれで、むしろ和歌の響きによって身体の「腑に落ちる」ことを好んできたのです。例えば、次のような古歌があります。

 

 分け登る ふもとの道は異なれど 同じ高嶺(たかね)の 月をみるかな

 

 山に登る道は、科学信仰、教会信仰などたくさんあり、なかには頂上につく前に途絶えてしまう道もありますが、人々は山頂よりはるかに高い中天にともる月(生命原理あるいは宇宙意識)を目指して山道を登っているのです。頂上についたからといって、月までの遠大な距離を考えると威張れるわけではありません。

 

このように人間による認識の限界と相対性を自覚するよう呼びかけることが、諸宗教と諸国家のはげしい対立を緩和する第一歩となります。「歴史」の認識や「神」の認識を独占しようとする人々を説得することが、これからのわが国の重要な任務となっています。

 

 草も木も 人はさらなり 真砂(まさご)まで 神の社(やしろ)と 知る人ぞ神

 

 この歌は、伯家神道最後の学頭補佐であった高浜清七郎の詠んだものですが、草も木も真砂に至るまで、すべてカミの分霊、カミの宿るミタマ(響きあう意識体)であって、それらをかけがえのないミタマと認めて尊重し、活かしあうことが人の本来の役目であると詠っています。

 

人間も自然も地球も、神(カムイ)の発現であるミタマとして、ひとし並みに尊重され、敬愛されることによって救われ、その輝きを増していくという太古からの思想を普及させていくべきではないでしょうか。そのためには、日本語のカミをきちんと説明し、普及させていく必要があるでしょう。人間はゴッドによって創られ、自然を征服することが許されたという聖書の人間中心の秩序神話は、もう限界にきています。

 

 あめつちを 照らす日月の かげみれば 心のくまも すがすがしけり

 

 これは、幕末の国学者鈴木重胤(しげたね)の歌ですが、日月の涼やかな光がもたらす「すがすがしさ」を味わうことをヤマト人は大切にしてきました。「浄、明、正、直」といった清明心の抽象的な分析よりも、すがすがしい身体感覚をもっとも大事にしてきたのです。

 

日月の光のすがすがしさを感じ取り、草木や真砂の気も感じ取ることのできる鋭敏な身体感覚を養うことの重要性をもっと海外に伝えていきたいものです。合気道や新体道などは、この面で大きい貢献を果たしています。

 

 何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる

 

 西行は伊勢神宮に参拝したおりこの歌をささげましたが、取るに足りない世捨て人のわが身に対しても天地(あめつち)のご配慮が及んでいることに気づき、身震いするほどの感動を受けたのでした。「かたじけなさ」は、「すがすがしさ」と並んで、ヤマト心の二本柱となっています。感謝と清浄の響きは、ヤマト人の行動を促す基盤となっている重要な身体感覚なのです。

 

ヤマト心には、もうひとつ「雄々しさ」の要素のあることも忘れてはなりません。感受性豊かなヤマト心を滅ぼそうとする勢力に立ち向かうには、次の明治天皇の歌にあるように、武者震いするほどの「雄々しさ」も欠かすわけにはいかないのです。

 

 しきしまの 大和心の 雄々しさは ことある時ぞ あらはれにける

 

 

 

 響きの海へ

「日本文化は、調べ(tone)の文化である)といみじくも指摘したのは、フランスの文化人類学者のレヴィ=ストロースでした。彼は、未開社会の思惟は、ある秩序的な世界観に基づいており、幼稚と思える神話の中に隠れている世界観の構造を発掘するよう呼びかけた学者です。

彼は数回来日して神武天皇の古里など隅々まで歩き、そこで実際にある神霊の声を聴き、日本には西洋人の見えない世界が息づいていることを発見して非常に驚いたのでした。レヴィ=ストロースは、そのことを『月の裏側』という著書において発表しています。「月の裏側」は地球からは見えないように、西洋から見えない裏の社会が、表と対をなすものとして日本に実在していたことを発見したのです。

 

欧米を論理の文化、神学の文化とすれば、我が国はそれと対照的な調べの文化、響きの文化と言ってよいでしょう。私どもは、自由主義や共産主義、バルト神学といった一貫性のある体系的な論理や神学によって説得されるよりも、天地(あめつち)に生り成りて鳴る「響き」の心地よさを味わって物事の良しあしを判断することを好んでいます。体感、体得して「腑に落ちる」身体感覚を重視しているのです。

我が国は、和歌、俳句、謡曲、詩吟、カラオケといった多様な響きを発展させてきましたし、絵文字や漫画、アニメも調べの文化の延長上にあります。それは、日本語の倍音豊かな母音の響きがもたらす右脳と左脳の精妙なバランスによって磨き上げられてきたものと多くの脳生理学者は指摘しています。

 

この響きの文化を、一つの思想に体系化したのは、ほかならぬ真言密教の空海でした。空海は、宇宙を構成する地、水、火、風、空の五大要素はみな響きを発していると見抜き、「五大みな響きあり」と説きました(『声字実相義』)

これは、驚くべき洞察です。思弁の得意なインド人のシャカが、「因果の無限連鎖」ととらえた実相を、日本人の空海は、身体感覚で感じとる「響きの無限連鎖」に置き換えたのです。彼は、マントラと想念の響きを伝えることを通じて、心身と宇宙の調べを調えようとしたのです。真言密教は、池に波紋が広がるように宇宙の海に調和のとれた響きの波紋を伝えようとする、まさに「響きの宗教」といってよいものです。

 

近年の素粒子物理学では、物質は五次元ないし十一次元の膜に存在の根を持つ極微なヒモの振動体であるという「ヒモ理論」が登場してきています。電子、原子も分子、細胞もすべてヒモの波動体であるというのです。とするなら、「五大みな響きあり」という空海の説は、そろそろ「五大みな響きなり」と修正してよいのではないでしょうか。宇宙を構成する地、水、火、風、空は、響きの事(コト)タマとして生り、成り、鳴っているのですから。

 

 日本の使命はいうまでもなく、事タマや言タマだけでなく、形も数も想念も響きの波動体であり、意識体であります。三角、四角、丸とその組み合わせのカタチから発する響きは、カタタマと呼ばれ、一から九までの数とその組み合わせが出す波動は、カズタマと呼ばれています。愛や憎しみなどの想念は、瞬時に地球の裏側まで飛んでいくオモイタマであることは、水の氷結結晶の国際実験からも裏付けられています(江本勝『水の伝言』)。

とすると、我が国の使命の一つは、このようなコトタマ、カタタマ、オモイタマなど多重のタマの響き合わせを通じて、近代論理とイデオロギーによって乱された世界の波動を調えていくことではないでしょうか。

「正義」を奪い合うロシアとウクライナの戦争を見ても、また最高神を独占しようとする中東の諸宗教の対立と紛争を見るにつけても、それによって乱れた地球の波動を調えていくことが、私どもの責務のように思えてなりません。中共の国内圧政や少数民族の弾圧が招いている波動のゆがみを、ヤマト心は響きあう言葉と想念と祈りをもって調え、雄々しき行動でもって打開していくことを求められているように思います。

 

カオス理論によると、北京で羽ばたいた蝶の響きは、連鎖反応を起こし、ニューヨークで嵐を呼ぶことがあるといわれています。これからの日本は、コトタマをはじめ、多重のよいタマを響かせ、地球と宇宙に良い波紋を伝えて響きの無限連鎖を調え、対立と紛争に明け暮れる世界を包み込んでいくことが使命となるのではないでしょうか。

 

アメリカも中国もロシアも、それぞれ独自の国体物語を持っています。

単純化していえば、アメリカは個人の自由の追求と民主制による意思決定を最高の価値とし、それを世界に普及させ、啓蒙するのがアメリカのミッションだという国体物語を持っています。中国は、官僚統制を通じて独自の社会主義を実現し、異民族に対する武力の行使と威嚇によって中華の覇権を握るという国体物語を人民に教えようと努めてきました。ロシアは、ソ連の崩壊後、旧来の共産主義の国体物語が崩れ、新しい物語を模索していますが、ウクライナ戦争が示すように、諜報組織と軍隊による強権統治の拡大の追求が、復活した国体物語といってよいでしょう。

 他方、我が国は、占領軍憲法によってアメリカ風の個人の自由と民主制を国体物語として強制されましたが、もとより我が国の伝統と国民性を反映したものではないので、いまだ根付かず、根無し草のように漂流しているのが実情です。

個人の自由に代わる生命人格の「自在」(とらわれないこと)、多数決の民主制に代わる「寄合制の意思決定」、個人主義ではなく父祖を含めた「共同体主義」などを言語化することを求められていますが、まだその機運は高まっていません。

これから準備すべき我が国の新しい国体物語は、響きあう多重のタマを基礎として作られ、話されていくことでしょう。

 

以上、神話や国語、身体感覚、響きの波動などさまざまな角度から説明してきましたが、まとめますと、私の提唱する新しい国体物語は次のようなものになります。

  1.  わが国体は、異なりを認めながらイノチとして一つであること(oneness in diversity)を自覚する祭祀共同体である。それは、あらゆる信仰や教義をつつみこむ、人類の共通遺産として伝承され生きのこってきた太古からの祭祀共同体である(=まつりつぐ)。

  2. その最高の司祭は太古の道統を伝えるスメラミコトであり、共同体の成員は、スメラミコトを模範として、自他を活かし、祈りあい、感謝しあい、助けあい、譲りあう(=むつみ、なごむ)。

  3. スメラミコトはあらゆる既成の宗教的、政治的権力を超えた根源的イノチを表象する生きた中心人格であり、内外の対立を緩和し、融和させる中心としてはたらく(=やわす)。

  4. この祭祀共同体は、政体と宗教の一致(政教一致)をもとめず、したがって共同体員は、科学信仰、共産主義信仰も含め、信仰の自由を有する。ただし、破壊的、脅迫的手段で各自の信仰を他に強制してはならない(=さとす)。

  5. この共同体においては、人間による真理の認識と伝達には、限界があり、その意味で相対的であることを自覚し、いつも謙虚で、他に対し寛容であることが求められる(=ゆるす)。

  6. 一方的に自己主張して勝つことより、時間をかけても共通の目標と立ち位置を見つけ、ともに共感、共視し、共同で解決を図るという態度を保持する(=よりそう)。この共同体においては、民主制ではなく寄合制を採用し、「自由」の代わりにとらわれない「自在」を求め、「平等」にかえて「応分」を尊ぶ。

  7. 知性により整合性のある論理体系を築くことは重要であるが、それと同等に、天地自然に鳴りわたっている聞こえない響きを感じ取れる感性と霊性を磨くことを重視し、修練する(=ととのえる)。

  8. いまここにいながらにして過去と未来にも行き来しているというふくよかな「中今」(なかいま)の時空感覚をもち、いつもコトタマとオモイタマを調えながら並行宇宙(時空)に響かせる(=ひびきあわせる)

  9. ヤマト心の「すがすがしさ、かたじけなさ、雄々しさ」といった身体感覚を深めるとともに、その響きを歌、踊り、アニメ、合気道、剣道などを通じて世界に発信する(=つたえる)。

  10. 世界の紛争と対立を防止し、和解させ、飢餓と難民の救済のために役立つ奉仕活動をそれぞれの立場で見返りを求めずおこなう(=つくす)。日本だけの和の共同体にとどまらず、地球全体の和の祭祀共同体へと昇華させていかねばならない。

 11. 以上の作業は、あらゆる宗教を包括する祭祀共同体の祭司王としてのスメラミコトを中心にしておこなう。政治概念としての天皇ではなく、無窮の歴史と文化と英知を象徴する文化概念としてのスメラミコトである。世界の宗教指導者たちが、宮中の賢所に集合し、日本語の太古の響きを唱和しながら、元は一つであることに目覚めることを最終目標として行動する。

 

 

要するに、不和と対立をもたらしがちな身勝手な論理や教義やイデオロギー体系はひとまず棚上げにし、それらを超えた、生り成りて鳴る天地の「響き」という、見えない「月の裏側」の世界があることを伝え、感謝と清浄と互助の響き愛の連鎖の中に、世界が一つになるように導いていくこと――私はこれを新しい日本の国体物語として提唱したいと考えているのです。

(参考文献・拙著『縄文のコトタマが地球を救う』、『宇宙の大道へ』、『アワ歌で元気になる』)