参院選に合わせて、憲法改正を

 

にわかに憲法改正の機運が増してきた。

さる総選挙で日本維新の会と国民民主党が躍進したからである。維新の会は

勢いに乗って、早速大胆な提案を政界に投げ込んだ。

昨年一一月二日、維新の会の松井一郎代表は憲法改正について「来年の参院選挙までに改正案を固め、参院選と同時に国民投票を実施すべきだ」と記者会見で述べた。松井氏は「憲法審査会をボイコットする立憲民主党、共産党を待っていても議論は進まない。スケジュールを決めないと先延ばしになる」と指摘し、「参院選に向けて各党は憲法改正案を出すべきだ」と提案した。

 

 

憲法審査会は衆参両院に常設されており、閉会中も開催することができる。与野党が合意するなら、毎週あるいは毎日開催しても差し支えないのである。ところが、抵抗勢力の野党が審議を拒否してきたのでずっと休眠中であった。

狡猾な自民党は、このような野党の引き延ばし作戦を見抜き、憲法審査会の開催延期を野党との取引材料にうまく使ってきた。駆け引きにたけた森山裕国対委員長は「開催」という脅しの短刀を抜いたり、引っ込めたりしながら国会運営をこなしてきた。自民党にとって、占領軍憲法の改正は「悲願」と言いつつも、本音のところでは政局の駆け引き材料のひとつにすぎなかったのである。

こうした馴れ合いの現状を打開すべく、維新の党が波の立たない沼に一石を投じたわけだが、これに呼応して国民民主党の玉木代表も一一月七日、ツイッターで訴えた。

「憲法の議論をするだけで袋叩きにするようなスタイルが忌避されていることに気づかないと、野党が多くの国民、特に若い世代に支持されることはないでしょう」

野党の姿勢が硬直だと国民から見放されると、やんわり警告したのであるが、立憲民主党などの動きは鈍い。旧態依然たるイデオロギーに固執する彼らは自民党よりも、守旧的なのである。若いときに洗脳された社会主義イデオロギーからは、年をとってもなかなか抜け出せないのである。

立憲民主党と決別した玉木代表は「選挙で約束した公約を一つでも多く実現するため、今後あらゆる政党、会派に協力を求めていきます」として、維新の会に近づいた。

こうして、日本維新の会と国民民主党は、衆参両院の憲法審査会を毎週開催するよう与党に求め、改憲論議を加速させる方針で一致した。議席が四倍に増えた維新の会は、夏の参院選に合わせ、憲法改正の是非を問う国民投票の実施を目指す考えを示している。

維新の会はすでに、教育無償化、統治機構改革、憲法裁判所の設置という三点に絞り込み改正原案を取りまとめるとともに、各党に具体的な改正項目を速やかに提案することを促している。国民民主党も憲法改正に向けた論点を網羅的に整理したものを発表している。

 

 

改正のスケジュール(私案)

 

憲法審査は、逐条審議をしていくのが筋だが、条文ごとに審査しようとすると、何年もかかる。審査会のメンバーが、国会の休会中に箱根にこもり集中審議すれば早いが、そこまでの熱意は与野党にもない。明治憲法の草案は、伊藤博文らが横須賀の夏島にこもり一年余で作成したが、当時とは政治状況が全く違う。

 

憲法の全面改正案を作成するのは時間がかかりすぎるので、まず二つくらいの簡単な項目に絞って原案を作成し、国民投票にかけるのが賢明ではないだろうか。

 

私案であるが、次の参院選で教育の無償化と前文の削除に絞って訴えてみてはどうか。日本以外の国は「平和を愛好する」国で、我が国だけが戦争を好む悪魔の国であると規定した前文は、噴飯物であり、無効なものであるから、この削除には、国民は賛成するであろう。

また、憲法第二六条第二項の「義務教育は、これを無償とする」に高等教育をくわえ「義務教育及び高等教育は、これを無償とする」と改正するのである。そうすれば、私学助成を禁止したにもかかわらず、私学助成を行っている違憲状態を解消することができる。

 

「高等教育」の範囲は、文言上は高等学校だけでなく、大学、大学院まで含むが、現実にどこまで無償とするかは立法政策にゆだねることとすればよい。それは、義務教育において、立法政策上、授業料と教科書代に限って無償とされているのと同様である。この無償化案は、与野党とも反対できないはずである。

 

 

このように、投票所では、教育の無償化と前文の削除の二提案について、それぞれOXをつけてもらうこととする。高齢者にも若者にも非常にわかりやすい改正案ではないだろうか。

この二点に絞り、憲法審査会で至急審議を始め、来年の参院選で国民投票にかける。それが間に合わない場合は、次の参院選で国民投票にかけることを争点にして、民意を問えばよいだろう。

いうまでもないことだが、前もって憲法の改正につき全会一致を求めるという慣例を破棄し、メンバーの過半数(又は三分の二以上)の賛成で改正案が成立するという審査会規約を制定しておきたい。それには、実力者を会長に就任させておかねばなるまい。

 

このようにして、次回以降の憲法改正でも、二項目くらいに絞って提案するのである。例えば、国会改革(国会議員の歳費に上限を設けるための四九条の改正、外交上の必要あるとき国務大臣は国会に出席しなくてもよいとする六三条の改正など)を提起するのである。これは、国民の賛同を得やすい提案であろう。

これと併せて、首都直下型地震、ミサイル攻撃などによって都市機能や中枢指揮機能がマヒした場合に備える緊急事態の権限規定を憲法に盛り込む提案を行う。疫病の際に強制的な外出禁止措置と補償措置もとれるようにするのである。

 

このように、まず喫緊の課題に絞った改正にとどめ、それによって改正に慣れさせることが重要である。自民、維新、国民の三党で、まず合意できそうな当面の案件に絞り込むのが賢明ではなかろうか。自衛隊の位置づけは確立しているので、私は急がなくてもよいと考える。国際法上も、個別的自衛権と集団的自衛権は確保されているので、単に自衛隊の存在を明記するだけの「加憲」なら、意味がないのでしない方がよいと考える。それよりも、脅威の抑止と対処の権限を定める「部隊行動権限法」の制定を急ぐべきと思う。(詳細は、議員立法研究所のサイトを参照されたい)

 

そして三回目くらいに、憲法第九六条第一項の改正案を提起するのである。

「 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、都道府県議会に意見を問い、その四分の三以上の承認を経なければならない」と改正する。

 

これは、米国憲法の改正規定に準拠した提案である。米国では、国民投票を求めず、州議会の四分の三以上の賛成で成立する。このように手続が簡便であるから、戦後も六回改正されてきた。我が国は、連邦制ではないが、現憲法下で、都道府県は自立した地方自治体とされたので、議決機関である都道府県議会の意見を問うことで足りると考える。

急速に変化する日本社会に即応して迅速に憲法改正するためには、準備に手間ヒマのかかる国民投票は間に合わない。参議院選挙ごとに国民投票するとしても、三十項目の改正について民意を問おうとすると、三十年以上を要するのである。

 

憲法廃止も視野に

 

もう一つ、国民が忘れている重要なテーマがある。そもそも憲法は必要なのであろうか、ということである。英国には、憲法なるものがない。すべて、法律と判例の積み重ねによって、いいかえれば良識(コモンセンス)によって運営してきた国である。アメリカのような非常に若い国や分離独立、離合集散の激しい欧州諸国では、国の根幹を定める憲法が必要であった。

しかし、英国や日本のように古い歴史を持ち、様々な経験を経て英知を積み重ねてきた国には憲法は必ずしも必要ではないと私は考えている。極端な話だが、聖徳太子の十七条憲法と明治の五か条のご誓文があれば、あとはその精神に基づいて法律の制定と改正で立派に国を運営していけるのではないかと思う。

 

それというのも、現在の日本国憲法は、占領軍の強制した占領基本法であって、もともと占領の終結とともに廃棄される運命にあったからである。緊急事態にはマッカーサー勅令で対応できたから、緊急事態条項は不要であった。米国の軍事力で日本は守られていたから、独自の軍備は必要でなかった。

占領軍の意思を押し付けて占領軍憲法を制定させたことは、前文で日本だけが悪者で日本以外の国は善意の国であると宣言していることからも明らかである。これほど、我が国を貶め弱体化させてきた憲法をいつまでありがたく保持し続けるのであろうか。

 

また、憲法の唱える「自由」は、強者や富者にとって有利な理念であり、貧富の格差を増大させてきたことも明らかになってきた。「アメリカファースト」を標榜したトランプ大統領は、まだ「強者の自由」を利用しているが、国内では低学歴の白人労働者が自由の犠牲になってきたことにやっと気が付いたようである。

我が国は、世俗的な自己を押し出す「個人の自由」よりも、共同体の和と発展を第一に尊重してきた。「自由」よりも「自在」(おのずから、あるように)を共同体の価値としてきた国である。歴史の浅いアメリカの軽薄な理念を写しただけの占領憲法は、この意味でも改正しなければならないと思う。

 

 吉田首相の懐刀であった白洲次郎は、占領の終わった昭和二十七年に吉田内閣が憲法の廃棄を宣言しなかったのは、吉田内閣の最大の失策であったと批判した。ふりかえってみればその通りである。占領軍憲法をそのまま生かしたために、むりな憲法解釈を積み重ね、自虐的な野党を生み、共産党などの反体制組織を温存させてきた。そして、米国の軍事的庇護のもとにやっと生存する属国としての地位にならされてしまう結果を招いた。我が国の平和は、憲法九条によって守られたのではなく、駐留する強力な米軍によって守られてきたのである。

 

しかし、米国の覇権と米軍の日本庇護がいつまで続くのか、不透明な状況になってきた。それに伴い、伝統的な価値の見直しと自主独立を求める声も高まってきた。占領基本法のままでは、国民の勇猛な自立精神と和の共同体理念が失われ、日本の再興は遠のいていくだろう、憲法改正が行われないなら、憲法を廃止する手続きを考案しなければと思っていたが、さいわい、維新の会と国民民主党が躍進し、立憲民主党がさらに勢力を弱める可能性が大きくなってきた。日本維新の会と国民民主党の議席を合わせると、予算関連法案を提出できるので両者の連携はますます深まり、政局に無視できない影響を及ぼし始めると思われる。

 

この勢いを継続させるため、重要な憲法改正を国民にわかりやすく、二項目くらいに絞って逐次提案してはどうだろうか。今度の参院選を、スタートの号砲としてもらいたいものだ。道のりは遠そうだが、やっと前途に一筋の明るい光が差してきたように思う。

 

憲法廃止の手続き

 

もし、憲法改正が、日本の存立を脅かすような危機事態に間に合わない場合には、直ちに憲法を廃止する手続きを準備しておかねばならない。それは、次のようなものになるだろう。

 

1 大日本帝国憲法七十三条の規定に準拠し、両院の三分の二以上の賛成により、占領基本法である憲法の失効確認と廃止をする決議を行う。(その提案発議は、法律の発議要件に準拠して衆議院で二〇名以上、参議院で一○名以上の賛成でよいであろう。)なお、廃止決議には「憲法が有効とされた期間において制定された法律、判例および行政実例は、新しい法秩序のもとで改正されるまでは有効とみなす」という項目を加えておく。

 

  2 右の国会決議に基づき、内閣が失効の理由を明確に付したうえで憲法全体の失効と廃止を確認する宣明書を発出する。

 

 3 内閣の代理として法務省が最高裁に対し、政府が宣明したことの事実確認の 宣明書を発出するよう要請する。

 

 4 最後に、最高裁判官会議が、司法行政権に基づき、政府宣明を確認する最高裁宣明を内外に発出する。

  この場合、最高裁自身が憲法九条の変遷と無効を確認する必要はなく、政府宣明が出されたことの事実確認の宣明で足りる。個別の裁判が継続していない場合であっても、最高裁が司法行政権に基づき宣明書を発出した前例がすでにある。それは、昭和五十一年七月、ロッキード事件において米人コーチャンを訴追しないという検事総長の宣明を確認する最高裁宣明を出した前例である。

 

憲法の改正が遅くなるほど、憲法廃止の機運が高まることは必至である。日本の置かれた戦略環境の変化に憲法がおいついていけず、それだけ国民の生命身体の安全が脅かされるからである。

もしも、上記の手続きで憲法廃止ができないなら、残された方法は、内閣と議会と自衛隊と警察が談合して行う一日談合クーデターとなるが、このやり方は、株式市場などに影響をおよぼすので、避けるのが望ましい。日本人は、明治維新で見られたように、変わり身が早いので、もし、尖閣諸島などが侵略された場合は、談合クーデターを工夫するかもしれない。攘夷から開国へと急変したように、日本人は、柔軟に変化し、対応する民族であることを周辺諸国に分からせておくのがよいだろう。