憲法改正が危機に間に合わない場合は、こうしたい

 

 ――国会と内閣が憲法九条の失効確認宣言をすればよい

 

三つの立場――有効、無効と失効

 

 現憲法については、その制定過程に着目して、これまで、無効論と有効論が闘わされてきました。 無効論者は、占領軍の武力によって強制された法令はそもそも無効であるという原則論を主張します。ハーグ陸戦条約の「占領者は占領地域の法令を変更してはならない」という規定を傍証に掲げています。

 

他方、有効論者は、占領軍の圧力があったにせよ、明治憲法の改正規定に基づいて制定されたのだから、少なくとも法形式上は有効であると考えます。そして、その後六十年間以上、裁判所においても行政府においても有効なものとして扱われてきたと主張しています。

 

  無効論の立場に立てば、占領が終結し主権を回復した昭和二十七年に、政府と国会が憲法の無効決議をして新しい憲法を制定しておけばよかったのですが、当時の吉田茂内閣はなぜかその道を取りませんでした。おそらく、再軍備より経済復興を優先しようとしたのでしょう。英文憲法草案の翻訳にあたった白洲次郎は、このとき占領軍憲法を廃棄しなかったことは吉田総理の最大の失政であったと批判しています。

 

吉田内閣も国会も廃棄しなかったため、その後、憲法の条文は政府において有効なものとして取り扱われ、裁判所においても憲法を有効とし、その解釈をめぐって様々な判決が下されてきました。したがって、今日、現憲法の全体を無効として一挙に葬り去ることは、クーデターによらない限り、不可能な政治状況となっています。無効論者の表に出る幕は、政治的にも行政的にも現時点ではなくなっているようです。

 

  しかし、憲法九条と前文について言えば、制定後の動的な法現象の過程に着目して、すでに失効したという第三の立場を主張することができると思います。のちに述べる「憲法の変遷」理論を適用して、国会と政府が九条と前文の失効を確認する宣言を行う余地があるのです。

 

今日、中国が尖閣諸島の領有権を主張して武力を行使する準備を着々と整えている状況をかんがみますと、また北朝鮮が日本攻撃を目的に長距離ミサイルと核弾頭の開発を進めている状況をみますと、国家と国民の安全が危殆に瀕していることは明らかであり、有効論に立った場合には、大至急憲法改正を行わなければならないと考えます。「憲法栄えて、国滅ぶ」という事態になったのでは、しゃれにもなりません。

 

ところが、現憲法の改正要件は、衆参両院の三分の二以上の賛成と国民投票という米国憲法以上に厳しい制約が課されているので、直ちに実施できる政治的状況にありません。これは、日本が、簡単に改正できないように占領軍が巧妙に仕組んだものですが、有効論に立つ限りこれを受け入れざるをえません。政治状況が熟すまで時間を待たねばならないということになりますが、問題は中国も北朝鮮も憲法改正まで対日攻撃を待ってくれるほどお人よしではないということです。

 

では、どうすればよいのでしょうか。憲法改正が間に合わないという危機的な事態に陥った場合は、いわゆる「憲法の変遷」理論を活用して、九条と前文の失効確認をすれば足りるというのが、私の意見です。それでは、「憲法の変遷」とは、どういうことなのか、それをまず検討してみることにしましょう。

 

 

 変遷の要件は

 

 「変遷」というのは、ドイツの法学者ゲオルク・イェリネック(1851―1911)などが生み出した専門用語です。憲法の改正手続きによらないで、憲法規範の意味が事実上変更されることを「変遷」と呼んでいます。

 

これは、改正手続きの要件がきわめて厳しい憲法において新しい事態に早急に対応しなければならない場合や、改正手続きが緩やかであっても憲法が想定していない事態が発生して緊急に対応しなければならない場合にしばしば起きる法現象です。

 

イェリネックによれば、憲法規範の変更は主として次のようなケースに起きるといっています。

 

1 議会の立法、政府または裁判所の解釈によって変更されるとき

 

 2 慣習の積み重ねによって変更されるとき

 

  3 憲法制定当初の前提の根本的な変化によって変更されるとき

 

4 政治上の必要によって変更されるとき

 

 

 

わが国でも、美濃部達吉がこの理論を最初に紹介し、清宮四郎、佐藤功、小林直樹、橋本公宣などの憲法学者も、憲法条項に規範的意味の「変遷」のありうることを肯定してきました。 たとえば、議会の立法によって、憲法の明文規定に反するような制度変化が起きた場合をとりあげてみましょう。

 

 私学助成は違憲

 

 端的なケースとして、私立学校振興助成法による私学助成の例があります。

 

憲法八九条は、「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し」公金を支出してはならないと明確に定めていますが、私学振興助成法により、私立の学校に対して助成金が支払われていますね。これは、文言にこだわる原理主義的な解釈をしますと、明らかに憲法違反といわざるを得ません。

 

しかし、議会の立法により、八九条の規範的意味が変更されたのです。私立学校に助成を行うことによって早急に教育レベルの底上げを図るという政治上の必要に迫られた政府が、立法により、憲法規範の変更を行ったのです。我が国の憲法改正の要件があまりにも厳しすぎ時代の要請に間に合わないということから、やむを得ず法律で憲法に違反する規定を設けたわけです。

 

原理主義的な解釈をすれば、「教育」が私学教育を含むことは明々白々ですから、自衛隊の存在を憲法違反とする私立大学の原理主義の学者なら、私学助成金の違憲性についてもこれを鋭く批判すべきなのです。ところが、彼らは私学助成の違憲性については、なぜか厳しく追及しようとしません。私学教育は、「教育」に当たらないなどと詭弁を述べ連ねていますが、これは明らかに二重基準の偽善というほかありません。

 

このほか、一部の外国籍の者に対し、昭和二十九年の厚生省局長通達により生活保護を支給してきていますが、これは日本人の犠牲において日本人との不公平を強いる措置であり、他の外国人との差別待遇でもありますから、これも憲法違反(法の下の不平等)の措置といわざるを得ません。米国では、憲法に違反する不公平な局長通達を出すことはとても認められないでしょう。ところが、自衛隊の違憲性を主張する憲法学者たちは、一片の局長通達で軽々と憲法を踏みにじることについても、なぜか口をつぐんでいるのです。 これはどう見ても自己欺瞞的な態度といわざるを得ません。

 

 

 

 九条は失効している

 

 それでは、本題の憲法九条について検討してみましょう。

 

ご承知のように、すでに昭和二九年の自衛隊法の制定により、わが国が自衛の武力を持つことは明確に容認されてきており、裁判所の合憲解釈も定着してきています(前記1のケース)。また、領空侵犯への警戒出動など自衛力の行使は、長年の慣習としても定着してきているわけです(前記2のケース)。

 

また、自衛隊法の制定は朝鮮戦争の勃発やソ連の威嚇を受けた政治上の必要からうまれたものであり、一昨年成立した平和安全法制も中国の覇権的な挑発行動に迫られて政治上の必要から制定されたものでした(前記4のケース)。

 

 さらに根本的なことをいえば、前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とありますが、韓国の竹島侵略や中国の日本領土に対する武力威嚇の現状を見てもお分かりのように、この前提が崩れたことがはっきりしてきています。いいかえれば、憲法制定当初の国際情勢の認識――悪いのは日本だけであって、日本さえ侵略しなければ、他国は侵略行動をとらないという牧歌的な前提がすっかり崩れてしまったのです。こういう根本的な国際情勢の変化が起きた以上、前文は規範的意味を失ったというべきであり、前文の「平和を愛する諸国民」の存在を大前提とした憲法九条も、すでに守るべき規範としての意味を失ったといわなければなりません(前記3のケース)。

 

以上のように諸点(ケース1~4)に照らし合わせてみますと、イェリネックの言う「憲法の変遷」は、憲法九条と前文についてはすでに完了しているとみるのが正当でしょう。制定当初有効とされていた憲法九条と前文の規範的意味は、その後に生じた国際情勢の根本的な変化とそれを受けて積み重ねられてきた立法、判例と行政実務を通じてすでに失効してしまったとみるべきなのです。

 

 「交戦権」は、完全な誤訳

 

 なお付け加えて言いますと、すでに我が国は、自衛隊法に基づき「陸海空軍」に匹敵する有数の戦力を保持しているのですから、「これを保持しない」とした九条二項は失効したとみるべきでしょう。また、二項後段には、「交戦権はこれを保持しない」とありますが、これは翻訳の明らかな誤りと思われます。

 

占領軍の用意した原文では、right of belligerencyとなっており、これは、国際法上確立された定義はありませんが、一般には、敵国との通商の禁止、敵国居留民の行動制限、敵国民財産の資産凍結、敵船舶の拿捕など軍事力による交戦以外に敵対国に対し取りうる諸権利を指すと国際法上解釈されていますから、正確には「敵対権」ないし「敵対行動権」と訳すべきものです。アメリカが、日米開戦前に実施した日米通商航海条約の破棄、対日石油輸出の禁止は、この「敵対行動権」の発動でした。

 

したがって、これを狭い意味の軍事的な「交戦権」(right of  military engagement)と訳したのは、明らかな誤訳といわざるを得ません。「交戦権」と訳すと、自衛のためであっても、交戦できないと解釈される恐れがありますが、こういう間違った訳語をいまだに残していることは国民の誤解を招き、百害あって一利なしというべきです。白洲次郎と外務省の担当者が占領軍の原案を急いで翻訳させられたために、このような致命的な誤訳が生じてしまったのです。(第1項にも、誤訳があります。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とありますが、原文では、「国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇または武力の行使」を放棄するとなっています。制定過程で、自衛のための戦争は放棄していないという立場を明確にするために、わざと文脈を変えて誤訳をしたものと思われます。)

 

 占領軍は、日本に対する報復と警戒という異常な情勢の中で、あわてて草案を作成したため、国際法上認められている自衛の権利との整合性を考慮しない、非常に大雑把な九条の文言を作成してしまったのです。

 

本来、安全保障にかかる憲法規定は、誤解を生む余地のないもっとも緻密な文章でなければなりませんが、この十分検討を加えていないことが明らかな九条を六十年以上そのまま放置してきたことは、憲法学会と国会の知的怠慢といわざるを得ないでしょう。いまだに自衛隊も違憲とする原理主義的な解釈を許す余地が残っているのは、急いで大雑把な原案が作られた九条自体に内在する致命的な欠陥であって、これは早急に是正されなければならないと思います。

 

 失効確認の手順はこうする

 

 以上のようにいくつかの側面から見ましても、憲法九条と前文の規範的意味が失われたことは明らかでありますが、問題は個々の学者あるいは国会議員が「憲法九条は変遷した、失効した」と述べても、制度的には意味がないということなのです。「変遷」が制度的に意味を持った「国策」として確立されるためには、ある公的な手続きを経なければならないのですが、その手続きについて憲法学者たちは、意図してか意図せずしてか知りませんが、議論を避けてきたきらいがあるのです。

 

そこで、私は、「変遷」を確定する以下の手順を提案してみたいと思います。

 

  1 国会は国の最高議決機関とされているので、まず衆参両院が三分の二以上の賛成で憲法九条と前文の変遷と失効の確認を決議し、合わせて政府に対し失効確認を求める。

 

過去六十年以上にわたり積み重ねられた各種の立法や判例、行政解釈を経て憲法の規範的意味がすでに変化していることを確認するだけですから、その決議は法律と同じく過半数の賛成で足りるという意見もありえますが、現憲法は明治憲法の改正規定によって制定されたというフィクション(虚構)を採用していますから、大日本帝国憲法七十三条の規定に準拠し、両院の三分の二以上の賛成を要すると解します。ただし、その提案発議は、自衛隊法などの法律の発議要件に準拠して衆議院で二〇名以上、参議院で一○名以上の賛成でよいでしょう。なお、この決議に合わせて、八九条の「教育」文言の失効確認の決議も行うのが論理上も精神衛生上も好ましいと思われます。(教育の無償化に私学教育も含めるなら、なおのこと、そうすべきです)

  2 右の国会決議に基づき、内閣が失効の理由を明確に付したうえで憲法九条と前文の変遷と失効を確認 する宣明書を発出する。

 

 3 内閣の代理として法務省が最高裁に対し、政府が宣明したことの事実確認の 宣明書を発出するよう要請する。

 

 4 最後に、最高裁判官会議が、司法行政権に基づき、政府宣明を確認する最高裁宣明を内外に発出する。

  この場合、最高裁自身が憲法九条の変遷と無効を確認する必要はなく、政府宣明が出されたことの事実確認の宣明で足りるのです。ご承知のとおり、個別の裁判が継続していない場合であっても、最高裁が司法行政権に基づき宣明書を発出した前例がすでにあります。それは、昭和五十一年七月、ロッキード事件において米人コーチャンを訴追しないという検事総長の宣明を確認する最高裁宣明を出した前例です。

 

 独立国家の平和憲法へ

 

 以上の手続きを踏みますと、国民を代表する国会と政府が、公式に憲法九条と前文の変遷を確定したことになり、最高裁も公式に承知した事実が確定することになります。

 

  このようにして、九条と前文の規範的意味の失効が公式に明確にされますと、世界の軍事バランスと軍事戦略にまったく無知な憲法学者たちが唱える牧歌的な解釈の忍び込む余地をなくすることができます。国際権力政治(パワーポリティックス)の冷酷さを考慮に入れると、本来なら憲法学者が率先して憲法改正を訴え、もっと精緻な文言を工夫するようにと提言すべきなのです。

 

もっとも、原理主義者の学者たちは、強気を装いながらもその牧歌的な解釈が緊迫しつつある国際覇権政治の現実と益々かい離し、内心は不安と違和を感じているはずでしょうから、失効確認の手続きに対し一応抗議の声をあげるとしても、以上の手続きによってかれらの不安感と違和感がはればれと払拭されたことに内心安堵するにちがいないと思われます。

 

  憲法条文の原理主義的な解釈を好む人たちは、これまで米国主導の平和(パックスアメリカーナ)に反対してきましたが、かれらの立場は、逆に日本の防衛を米国に依存し続けさせることによってわが国を米国の利益に奉仕する属国として固定化する結果を招いてきたという矛盾に気がついていないようです。彼らの解釈する「平和憲法」は、自主防衛力を持たず、ご主人米国の庇護に甘えるしかない「奴隷の平和」憲法にほかならないという事実にまだ気づいていないようです。

 

自己主張を許されず、その日の食い扶持だけ与えられて安穏に暮らすのが「奴隷の平和」です。戦後七十年間、日本は、「奴隷の平和」を理想的な「平和」と勘違いして、安住してきたのです。自主防衛力を欠いた属国の地位に甘んじていたために、これまで金融交渉、半導体交渉、OS交渉などで抵抗できず、つぎつぎ苦汁を飲まされ、多大な国富を失ってきたことをゆめ忘れてはなりません。「隷属国家の平和」憲法は、一刻も早く「独立国家の平和」憲法に改訂しなければなりません。

 

決定的瞬間に至るまでに

 

 安倍内閣は、自衛隊の明文化、緊急事態条項などの改正を志向しているようですが、安全保障の感覚が麻痺している野党が協力しないため、遅々として進んでいません。改正の準備はそれとして粛々と進めていけばよいのですが、この正攻法では、空母を建造して尖閣を奪取し、次に沖縄の領有を画策しようとしている中国に対処することができるでしょうか。中国は憲法改正を待ってくれるほどお人好しではないのです。北朝鮮も、長距離核ミサイルの配備を憲法改正まで待ってくれるわけがありません。

 

ちなみに、ドイツの憲法学者で憲法裁判所の裁判官を務めたコンラード・ヘッセは、次のように述べています。

 

「憲法が危機を克服するための配慮をしていないときは、責任ある国家機関は決定的瞬間において憲法を無視する挙に出るほかすべはないのである」 。(西修『憲法を考える』より抜粋)

 

 竹島が侵略されたとき、右に述べた九条失効の国会決議を行っておくべきでしたが、次の「決定的瞬間」――中国が不法に尖閣を侵略するという危機が訪れたとき、国会と政府はためらわず、憲法九条の失効確認を公式宣言しなければなりません。北朝鮮のミサイルがわが領域内に落ちたとき、あるいは核攻撃の威嚇を加えてきたときにも、ただちに右の国会決議と内閣決議を断行すべきであります。

 

幸い、われわれは、クーデターという最悪の手段ではなく、変遷という理論を活用することによって、誤訳を含む制度疲労した憲法条文の失効を公式宣言し、国の危機を打開することができるのです。この平和的な方法を活用しない手はありません。 

 あとはひたすら、右の決議を推進する政治家の登場、西郷隆盛のように「金もいらず名もいらず」という勇気ある政治家の登場をまつばかりであります。

 

 「純粋な個人」は、存在しない

 

 なお、付け加えて言えば、現憲法には、九条以上に重大な問題が残されています。たとえば、 「国民主権と基本的人権」の理念は、日本の歴史と伝統を精査したうえで日本人自らが自覚的に生み出したものではなく、マッカーサーが日本弱体化という占領目的を遂行する手段として西洋の擬制的な政治理論を埋め込んだものですので、根本的な再検討を要します。

 

「国民主権」や「自由権」、「平等権」の理念は、フランス、アメリカなど貴族専制や植民地支配からの解放、独立を求めた国において、解放と独立を正当化するために生まれた理論でした。 

 

「個人の自由権」、「個人の平等権」というのは、個人が契約または信託によって社会を構成しているのだから、諸個人が契約を結びなおせば、自由に社会を変革したり、暴力革命を起こしたりすることができるという西欧の社会契約説に基づいています。

 

フランス革命を先導した「社会契約説」は、諸個人の契約によって社会が成立しているというアトム(原子)説に立っています。しかし、個人は、生まれたときすでにある共同体に属しており、共同体の歴史と伝統と約束事を離れて生活することはできないのです。

 

「すべて国民は個人として尊重される」という憲法の条文は、共同体の一員として共同体の制約の中で成長する人間のあり方を無視しているわけです。共同体の伝統的な価値よりも、今生きている個人の考えを優先させようとする破壊的な理念といわざるを得ません。また、祖霊信仰をもち、お盆お彼岸の風習をもつ日本人は、祖霊、守護霊などの霊的共同体とともに生活しているというべきであり、この点からも「個人本位主義」は批判されるべきものであります。

 

百歩譲って、「個人の権利」をみとめるとしても、それは「義務」と裏表であります。相手の権利を受け入れる義務を承認して初めて権利が現実に発生するのですから、共同体の一員として相手の権利を認め、さらに志を高め成長するという「義務」を重視し、教育することからまず始めなければなりません。シモーヌ・ヴェイユも言っているように、「義務の受け入れは権利の要求に先行する」のですから、このことを憲法に明記しなければならないでしょう。

 

  「自由」は、対立を正当化する理念

 

 このように「人権」と呼ばれるものは、フランス、アメリカなど特定の国の歴史的文脈と社会理論を離れては存在しないのであり、すべての国に共通する「普遍的人権」、「普遍的自由」なるものは存在しえないのです。抽象的な「自由」や「平等」は、かならず具体的なある特定の社会の秩序や共同体の制約と結びついた形で存在していると、英国の保守思想家バークが説いているとおりです。 特定の社会の秩序や共同体の制約と離れた抽象的な「普遍的人権」なるものを導入すると、その社会の混乱を招きかねないのです。まして独自の伝統と価値体系を有するわが国にそのまま適用すると、国民の感覚や集合的無意識と齟齬をきたすことになり、国家運営と国民統合が円滑にいかなくなるおそれがあります。

 これまでの歴史を見てもわかるように、自由というのは、その時々における「アメリカの自由」、「ロシアの自由」、「私の自由」、「あなたの自由」というように「の付き」の自由でしかなく、普遍的な自由というものは存在しないのです。そして、自由の主張は、必然的に対立と闘争を招きます。

 

「国民主権」について言うと、現憲法前文は、「権威は国民から出で、権力は国民が行使する」としていますが、これは君主と国民を対立させる西洋独自の思想に基づいたものであり、日本の国家構造を無視しているといわざるを得ません。わが国にあっては、「権威」は現在生きている国民からでなく、悠久の歴史と国民統合を象徴する存在としての天皇から生まれ、「権力」は国民の選んだ議会と政府が行使するというべきでしょう。したがって、権力の不当な行使が生ずれば、国民がチェックするほかに、ある「権威」が勅語(お言葉)という形で制約を与えることがあってもよいわけです。キリスト教の伝統を持たないわが国においては、権威(天皇)が、聖性と道義を代表し、権力(国民)が世俗と私益を調節するというあり方が国家と国民の品格を高めるに不可欠と思われます。(この意味で戦前の「君民共治」の理念は、再評価、再定義されるべき時期に来ていると思います)

 

さらにいうなら、「国民主権」という場合の「国民」は現在生きている国民を意味しており、残念ながら死亡した父祖を含んでいません。わが国の素晴らしい歴史と伝統を創ってくれた亡き父祖の意向を「国民主権」の理念は全く無視しているのです。米仏で過去の伝統をすべて破壊し、勃興した資本家や商人の利益を確保するために登場した理論が「国民主権」であることを忘れてはならないでしょう。「国民主権」は、資本家や商人たちの飽くなき利益追求の自由と密接に結びついています。それは、かつて日本社会に横溢していた武士の自己犠牲の精神や農民の謙譲、寡欲といった価値を軽視する理念でもありました。

 

宮沢俊義の大罪

 

振り返ってみますと、「国民主権」と「基本的人権」をその生まれてきた淵源にさかのぼって再検討を加えようとせず、無批判に所与のものとして受け入れ、これを無知な日本社会に啓蒙しようとする教養主義的な姿勢は、憲法学者の宮沢俊義に始まり、その弟子である小林直樹、芦部信喜、樋口陽一らに引き継がれてきました。特に、教授の地位を守るために、戦前の自説を180度転換し占領軍におもねった宮沢の変節とご都合主義的な態度は、重大な禍根を残すものでした。そして、彼らから憲法学を学んだ法学部の学生たちも、新憲法の理念は、批判することのできない「普遍的」なものとして刷り込まれ、官界に経済界にと巣立っていったわけです。

 

(筆者もその一人でしたが、その後、日本の固有の思想と価値体系を研究するに従い、西欧の理念に違和感と幻滅を感じるようになり、近年のアメリカ社会の極端な二極分化と破壊衝動、それらがもたらす社会分裂の予兆)を見るにつけ、アメリカの文化と価値観を受け入れ続けるなら、日本社会もアメリカの後を追って分裂し、平穏な社会統合と発展ができなくなるのではないかと危惧しています。)

 

 わが国の憲法学者は、無批判に西欧の理念を受け入れてきましたが、これからは、わが国の伝統思想と理念を発掘して、その上に立った憲法改正を提案すべきであると思います。学者たちは、「権利対義務」、「自由対平等」、「個人対共同体」という西洋の二項対立的な概念を超える概念を発明しなければならないのです。例えば、平等に代わる「応分」(能力に応じた配分)、自由に代わる「自在」(自ずからなること、あるいは自然、じねん)といった概念を考案すべきでありましょう。 個人の「義務」ではなく、共同体の一員としての「任務」、個人の「権利」ではなく、共同体の成員としての「権限」という概念に置き換えるべきではないでしょうか。

 

 戦後まもなく、法哲学者の尾高朝雄は、一朝一夕に変更されることのない国民の慣習的規範(ノモス)というものがあると主張し、宮沢俊義の迎合的、ご都合主義的な憲法理論を厳しく批判したことがあります。

 

尾高朝雄は、明治維新以来、あるいはそれ以前から慣習として定着していた法規範にはそれなりの存在意義があるはずであり、これを一挙に投げ捨ててしまうのではなく、再評価してその良い部分を継承すべきではないかと考えました。ドイツでフッサールの現象学を学んだ尾高は、我が国の伝統的な法現象の中から新しい統治理念を抽出すべきと主張しましたが、占領軍の威圧に便乗していた学界の革新勢力の前にあっては、多勢に無勢でした。

 

日本の憲法学界は、ふたたび尾高の基本姿勢に立ち戻り、西洋理論の根本的な再検討を行うことが求められているのです。現今の原理主義的な憲法解釈学者は、占領軍憲法とわが国の慣習的規範の間で立ち往生し、精神分裂をきたしていると思われます。彼らを精神分裂と自己欺瞞から救うためにも、一刻も早く日本思想の根本にさかのぼりそれに即した憲法改正を行わねばならないと考えます。

 

残念ながら、提案されている自民党の憲法改正案は、日本の基本的、伝統的価値観を反映したものではなく、まだ西洋の擬制的な社会理論に立ったものであり、内容も党内の左右両派の意見の寄せ集めで首尾一貫していないように見受けられます。「自在」と「応分」、「任務」と「権限」、「共同体」と「成員」、「君(権威)と民(権力)の共治」など我が国の基本的概念を生み出すまでにはまだ相当の時間がかかることでしょう。したがって、当面は、憲法九条と前文と「教育」条項の失効確認を行い、あわせて憲法改正規定の改正を行うことに専念し、その他の条文はじっくり腰を落ち着けて草案を作成し、検討するのが賢明ではないでしょうか。(了)

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入江隆則氏は『敗者の戦後』で以下のように述べている。

 

「真に脅威を取り除くには敗戦国民の精神に自分たちの過去への嫌悪の念を植えつけると同時に戦うこと一般への忌避の気持を育て、しかもそれが勝者の戦後処理の政策として押しつけられたのではなくて敗者の自発的選択として為されたようにする。

 

勝者への復讐心を取り除くためには、勝者は敗者に対して寛大だという印象を与え、思想改造を強制する場合も、それが勝者による強制だという印象を薄めて敗戦国民の自発的な自己批判の形をとらせるのがよい。

 

戦勝国から強制されたとなれば、占領の終結と同時に元に戻ってしまうが、自発的変身だと信じ込ませておけば、より長期的な効果が期待できるからである。この精神的武装解除がかつてなかったほど巧妙に実施された典型的な例が日本の戦後であると思う」